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吉田所長、「全面撤退」明確に否定 福島第1原発事故

  • 2014/08/18 「【吉田調書】吉田所長、「全面撤退」明確に否定 福島第1原発事故+(2/2ページ) - MSN産経ニュース」 (Link)

 平成23年3月の東京電力福島第1原発事故に関し、産経新聞は17日、政府の事故調査・検証委員会が事故発生時に所長として対応に当たった吉田昌郎氏(25年7月9日死去)に聞き取り調査してまとめた「聴取結果書」(吉田調書)を入手した。吉田氏は東電が事故発生3日後の14日から15日にかけて第1原発から「全面撤退」しようとしていたとする菅直人首相(当時)らの主張を強く否定し、官邸からの電話指示が混乱を招いた実態を証言している。吉田氏は一方で、現場にとどまった所員には感謝を示すなど、極限状態での手探りの事故対応の様子を生々しく語っている。

 吉田氏への聴取は23年7月から11月にかけ、事故収束作業の拠点であるサッカー施設「Jヴィレッジ」と第1原発免震重要棟で計13回、延べ27時間以上にわたり行われた。吉田調書はA4判で約400ページに及ぶ。

 それによると、吉田氏は聴取担当者の「例えば、(東電)本店から、全員逃げろとか、そういう話は」との質問に「全くない」と明確に否定した。細野豪志首相補佐官(当時)に事前に電話し「(事務関係者ら)関係ない人は退避させる必要があると私は考えています。今、そういう準備もしています」と話したことも明かした。

 特に、東電の全面撤退を疑い、15日早朝に東電本店に乗り込んで「撤退したら東電は百パーセント潰れる」と怒鳴った菅氏に対する評価は手厳しい。吉田氏は「『撤退』みたいな言葉は、菅氏が言ったのか、誰が言ったのか知りませんけれども、そんな言葉を使うわけがない」などと、菅氏を批判している。

 朝日新聞は、吉田調書を基に5月20日付朝刊で「所長命令に違反 原発撤退」「福島第1 所員の9割」と書き、23年3月15日朝に第1原発にいた所員の9割に当たる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第2原発へ撤退していたと指摘している。

 ところが実際に調書を読むと、吉田氏は「伝言ゲーム」による指示の混乱について語ってはいるが、所員らが自身の命令に反して撤退したとの認識は示していない。

 また、「退避」は指示しているものの「待機」を命じてはいない。反対に質問者が「すぐに何かをしなければいけないという人以外はとりあえず一旦」と尋ねると、吉田氏が「2F(第2原発)とか、そういうところに退避していただく」と答える場面は出てくる。

吉田調書 世界の原発安全性の糧に 極限状況下の事故対応を学べ

  • 2014/08/18 「【主張】吉田調書 世界の原発安全性の糧に 極限状況下の事故対応を学べ+(1/4ページ) - MSN産経ニュース」 (Link)

吉田調書 世界の原発安全性の糧に 極限状況下の事故対応を学べ 2014.8.18 03:08 (1/4ページ)[主張]  産経新聞は「吉田調書」を入手した。調書の作成者は、政府の事故調査・検証委員会である。 マグニチュード9・0の巨大地震に伴う大津波で被災し、複数の炉心溶融へと発展した東京電力福島第1原子力発電所の事故現場での対応活動などの詳細が、調査・検証委の質問に対する吉田昌郎所長(当時)の回答として記録されている。 東大名誉教授の畑村洋太郎氏を委員長とする調査・検証委は、吉田氏をはじめ、約800人の関係者からの聴取内容を基に、原発過酷事故再発防止の教訓を抽出することを主眼とした「最終報告」を平成24年7月にまとめている。 《規制委は教訓を生かせ》 最終報告に占める吉田調書の比重は、質と量において大である。なおかつ一問一答の形でつづられた大部の調書は、事故当時の自身の感情までを赤裸々に語る吉田氏の肉声で満ちている。 日本国内に限らず、世界の原発の過酷事故を未然に防ぐための教訓の原典として、吉田調書を位置づけたい。

 調書から浮かび上がる問題点は、発電所の現場と東京の東電本社との間で、事故に対する認識の差が極めて大きいことだ。

 電源を喪失し、爆発が重なった発電所では、計器類をはじめとして、多くの装置が機能を失っている。そうした個々の異常事態が相互に絡み合った現場での活動の難しさは、本社首脳陣の想像力を絶する域に達していた。

 発電所構内にいても、混乱を極める過酷事故の現場では状況がつかめないし、本社の首脳が考えるようには動けない。発電所内の通信設備の徹底強化の必要性が改めて痛感される。

 現場と首相官邸との意思の疎通はさらに難しかったことも読み取れる。東京から繰り返された高圧的な指示は、現場介入以外の何ものでもなかった。為政者が肝に銘じるべき教訓である。

 こうした事故時の課題や問題点は、調査・検証委の最終報告においても既に指摘されているが、吉田氏の証言には、未曽有の修羅場をくぐった現場責任者ならではの迫力と重みがある。

吉田氏は病で25年7月に他界したが、健在なら「原子力ムラ」の出身などという排除の論理を超えて、原子力規制委員の職に就いてもらいたかった人である。

 吉田調書などを踏まえた調査・検証委による最終報告には、規制当局に対する次のような注文も含まれている。

 「技術的に枝葉末節のチェックに追われ、安全のための大局を見る余裕のない業務の在り方になっていないか」

 吉田調書は朝日新聞も入手しており、5月20日付の朝刊に「所長命令に違反 原発撤退」という記事が掲載された。

 《命かけた人への冒涜だ》

 福島第1原発で2号機の格納容器破損が疑われる異変が起きた23年3月15日の午前中に、多くの所員が吉田氏の「待機命令」に背いて福島第2原発に撤退していたことが、吉田調書で明らかになったとする内容だ。

 だが、調書を精読すると、吉田氏が出しているのは終始、事故対応に必要な人員以外に対する「退避」の指示だ。福島第2が有力な避難先になっていたことも疑いようがない。

「退避」と「待機」では、意味が逆だ。無用な被曝(ひばく)を避けるための退避をどうして「現場離脱」と断じたのか。「暴れている」原発の冷温停止に命をかけた人々に対する冒涜(ぼうとく)であろう。

 4基の原発が大破して放射線量が上昇し、余震が繰り返される極限状況下で、原発技術者は被害拡大を防ぐために死を覚悟して過酷事故に立ち向かった。

 吉田調書からは、人の動きを含めた福島事故の実像が見えてくる。史上最大級の原子力事故の体験を負の遺産としてはならない。失敗を乗り越え、未来に進んできたことで人類の今日がある。

 福島事故を踏まえて原発の安全性強化が進む中、原子力規制委員会による九州電力川内原子力発電所1、2号機への一般からの意見公募も15日に終了した。

 千年に一度の大津波に福島第1原発は屈した。しかし、発電所で働く人々の事故拡大防止にかける心は健在だった。これから始まる原発再稼働に対する信頼のよりどころの基礎としたい。

  • 2014/08/26 「【吉田調書】「あのおっさんに発言する権利があるんですか」 吉田所長、菅元首相に強い憤り+(1/3ページ) - MSN産経ニュース」 (Link)

「あのおっさんに発言する権利があるんですか」 吉田所長、菅元首相に強い憤り 2014.8.18 05:00

「私にとって吉田(昌郎)さんは『戦友』でした。現(安倍)政権はこの(吉田)調書を非公開としていますが、これは特定秘密にも該当しないし、全面的に公開されるべきです」

菅直人元首相は月刊宝島8月号で、ジャーナリスト(元朝日新聞記者)の山田厚史氏のインタビューに対し、東電福島第1原発の元所長、吉田氏を自らの「戦友」だと述べている。

だが、産経新聞が入手した吉田調書を読むと、吉田氏側は菅氏のことを「戦友」とは見ていない。むしろ、現場を混乱させたその言動に強い憤りを覚えていたことが分かる。

例えば、政府事故調査・検証委員会の平成23年11月6日の聴取では、「菅さんが自分が東電が逃げるのを止めたんだみたいな(ことを言っていたが)」と聞かれてこう答えている。 「(首相を)辞めた途端に。あのおっさんがそんなのを発言する権利があるんですか」

「あのおっさんだって事故調の調査対象でしょう。辞めて、自分だけの考えをテレビで言うというのはアンフェアも限りない」

菅氏は同年8月の首相辞任後、産経新聞を除く新聞各紙やテレビ番組のインタビューに次々と応じ、自身の事故対応を正当化する発言を繰り返していた。これを吉田氏が批判的に見ていたことがうかがえる。

また、菅氏が自分も政府事故調の「被告」と述べていたことから、吉田氏は「被告がべらべらしゃべるんじゃない」とも指摘し、事故調が菅氏に注意すべきだとの意見を表明した。

菅氏だけでなく、当時の海江田万里経済産業相や細野豪志首相補佐官ら菅政権の中枢にいる政治家たちが、東電が全面撤退する意向だと考えていたことに対しては「アホみたいな国のアホみたいな政治家」とばっさり切り捨てている。

その菅氏は今年7月24日付のツイッターで、吉田調書についてこう書いた。

「吉田調書など(で)当時の状況が明らかになり、発生翌朝現地で吉田所長から話を聞き、撤退問題で東電本店に行った事も理解が増えています」

吉田氏の肉声はこれとは食い違う。政府事故調の聴取(23年7月22日)で「(菅氏は)何のために来るということだったんですか」と質問され、こう突き放している。

「知りません」

「行くよという話しかこちらはもらっていません」

さらに必死で作業を続けている所員らに菅氏が激励もせずに帰っていったことを証言している。

菅氏が震災発生4日後の15日早朝、東電本店に乗り込んだことにも冷ややかだ。同じ頃、現場でまさに死と向き合っていた吉田氏は7月29日の聴取で、テレビ会話を通してみた菅氏の東電本店での叱責演説についてこう語っている。

「ほとんど何をしゃべったか分からないですけれども、気分悪かったことだけ覚えています」

「何か喚いていらっしゃるうちに、この事象(2号機で大きな衝撃音、4号機が水素爆発)になってしまった」 


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